top > 別冊『多木浩二と建築』

特別寄稿
私的回顧・多木さんの事

川俣修壽

 多木浩二さんが4月13日、自宅近くの病院で肺炎のため亡くなった。82歳だった。
 彼は1967年から助教授として和光大学に赴任したが、生前の剣持昤さんの言い方によると「俺が多木さんを和光に連れてきたんだ、川俣に感謝して貰わなければ」という事だった。本当かどうか不明だが、当時多木さんは、建築雑誌に篠原一男さんや磯崎新さんら若手建築家の作品批評をよく書いていたから、あながち建築家の剣持さんの言葉もフィクションとはいえないと思う。
 多木さんは火曜日の一コマ目で「映像論」を受け持っていて、内容は場当たり的だったが面白かった。心理学的分析でも一寸斜に構えるというか、正統派とは切り口が異なり刺激的だった。
 多木さんの授業は講義と言うより、黒板に向かって独り言をいいながら文字を書き連ねるといった感じで、良く聞いていないと声が小さくて何を言っているのかよく分からない。聞いている学生も多くて10人程度だった。
 但し、授業は月一(つきいち)もなく休講の連続、それも多木さんの無断休講で最初は喜んでいた学生も次第に不満がつのり、ついに私が代表して宮川寅雄(芸術学科長)さんに抗議に行った事もある。
 宮川さんは、「多木君にも困った、良く言っておく」と実情は理解してくれたが、その後も一向に休講は改善せずそのまま夏休みに入った。突然、補講が8月の第2週から5日間あるという情報をつかんだので、大学に行くと学生の殆どは郷里に帰っており、在京者も旅行などで出席者は数人しかいない有様。
 多木さんは、「何で出席率がこんなに悪い」と自分の無責任を棚に上げてつぶやく。万事がこんな様子で1年間が終了した。
 多木ゼミは、それぞれの課題の進行具合を休講でなければ毎週学生が多木さんに報告し、残りの学生はそれを傍で聞いている形で進行していた。学生は8人程度だった。人間関係学科には無い方式なので新鮮だったが、当時の芸術学科の学生は自分で決めた課題を毎週進めてこない奴もいて、何とも締まりのない内容になることが多かった。
 多木さんに写真研究会の顧問をお願いしていたから「大パネル」(下掲写真参照)の時など、色々アドバイスをしてくれた。内容に干渉することはなく、「4の5」のカメラをフィルム付きで貸してくれた。もちろんカンパも満額1万5000円だった。ちなみに「大パネル」は小野雄一さんと何か大きい事をしようと、校舎にスライドを映写しようなどと話している中で出たアイディアだった。
 大学祭の最中の教授会で「大パネル」が議題になるのを知った多木さんは、初めて出席した。予想通り保守派教授から厳しい批判が巻き起こったが、多木さんたちは私たちを弁護してくれた。教授会の後に多木さんから「大学祭が終わったら撤去するように」と念を押された。
 『プロヴォーク』(1968-69)の発行は、私には突然だったが販売の協力を大いにした。多木事務所(あるぼ)は、青山通りから少し入った北青山3丁目のアパートの2階にあった。私も半ば入り浸りで、作業の手伝いで二人で徹夜したこともあった。社会人の発想なら遅くなっても歩いて帰るのが普通だが、当時は寝る時間にいる場所がその日の宿という感覚だった。
 1号は300冊、2号は500冊、3号は700か1000近く刷ったが、あれがまさか40年後に揃いで100万円以上の値が出るとは誰も考えなかった。初めの頃は、女性が多木さんの助手をしていたが、結婚か何かで退職しその後釜が柳本尚規さんだった。中平卓馬さんと森山大道さんの住まいは逗子方面で方向が一緒、いつも連れだって帰っていたが傍から見ても仲が良かった。
 二人とも繊細で特に中平さんはストイックな所があり、当時から何か思い詰めている感じだった。東大闘争の取材で偶然、順天堂病院近くで会った時も、何か革命前夜という思い入れだった。この時は、体調が悪いと言うので駿河台の日大病院に一緒に行った思い出がある。
 彼は東京外語大のスペイン科出で、黒木和雄さんの映画『キューバの恋人』(1969)の字幕翻訳や、『ゲバラ写真集 チェ』(ブエノスの灯編、現代書館、1969)の編集を多木さんとやっていた。多木さんは、英仏独蘭西語が出来るようだった。森山さんも『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)を発行したばかりだったが、版元は直ぐに倒産、本は古書店で投げ売りという有様。
 『プロヴォーク』の販促用のポスターも事務所で手作りしたが、シルク印刷の乾燥は矢張り洗濯ばさみだった。あのポスターは全部で10種類以上あり、作っていた本人達は殆ど頓着していなかったから本人達が持っているとは考えにくい。現在、揃いで持っているのは世界中で柳本さん唯一人だと思う。
 中平さんは、『来たるべき言葉のために』(風土社、1970)を発行後ネガなどを全て逗子海岸で焼却、その後長い闘病生活を送った。噂では、『プロヴォーク』の費用は全て多木さん持ちだったとか。
 多木さんは、4年目のゼミでオランダ語のテキストを選び、学生は「大体、大学にオランダ語の講座がないのに、突然言われても」とあせっていたが、そういう事を平気で言いだす人だった。ゼミで、「次回は映画を作ろう」なんて提案するが、カメラの手配もなければ編集機もない。全部学生個人で調達しなければならず、しかも多木さん自身は映画を作ったことが無く、技術指導は全て小野さん任せだった。
 多木さんは東大卒業後広告会社の博報堂に入社、退社後「あるぼ」を設立。その前に小さな出版社に勤務していたようなことを本人から聞いたことがあり、そこで労働争議を担った事もあるようだった。
 全学ストをやるなら、いつ解除するか、スト中何をするか考えておかないと運動は持たない、と忠告してくれた。
 青山時代の多木さんは、旭硝子のPR誌を請負い企画、取材、編集、印刷管理などをしていた。多分それが収入の大半だったと考えられる。その合間に建築雑誌に作品論を展開し、あの頃は自治体庁舎の建築ラッシュでその意味論を毎月のように発表していた。もちろん大学からの給与もあった。
 モントリオール万博には、一人で取材に出掛けそのPR誌で特集していた。この時も、ギャラの多寡で旭硝子と多少やりとりがあったようだ。私が「多木さんは写真が下手だからなー」と言うと苦笑いしていた。メンバーでは、高梨豊さんが抜けて写真は上手かった。奈良原一高さんの写真の感想を聞くと、美意識と様式美に批判的だった。
 大阪万博では、『叛』(1968)という冊子を作って批判していたが、それは建築空間を問題にするのではなく、参加、建築する思想を批判していた。
 もちろん、「VIVO」(奈良原一高、東松照明、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章)のグループとも距離を置いていた。森山さんは細江さんの弟子だった。中平さんは、雑誌『現代の眼』の編集者をしていてそれで写真に興味を持ったがその入り口は、「ウイリアム・クライン」「ロバート・フランク」だった。
 唯一、高梨さんだけが写真界で不動の位置を占めていたが、それは主に広告写真だった。高梨さんはモデルと付き合っていて、破綻したか、しそうだったとか多木さんと中平さんは話題にしていた。高梨さんが『プロヴォーク』に加わったのは、博報堂時代の関係かも知れない。しかし、高梨さんの〈東京人〉(『カメラ毎日』1966年1月号)は、評価も高く広告写真家から一歩抜け出したころだった。
 彼等4人が『プロヴォーク』で何を目指していたのか不明だが、思想問題を別にして3号雑誌で終わったのは経済的基盤がなく(多木さんと高梨さんはともかく、森山さんと中平さんは私同様いつも金欠病で、多木さんに1万円単位で借りていた事もあった。この二人を支えたのは、間違いなく配偶者です)、販売ルートも自主開拓だったから限界があった。国会図書館への納本制度も全員知らなかったことが、現在幻の雑誌として高値を呼んでいる原因で、世界中の図書館で3冊揃いで持っている所は一カ所もない。全員、カメラは道具という感覚でぼろぼろだった。
 多木さんは、岩波写真文庫(名取洋之助と仕事をしたことがあると、話していた)、旭硝子のPR誌『ガラス』と『プロヴォーク』時代のみ写真に取り組んでいる(厳密に書くと、70年代中頃まで「建築写真」を撮っている)。はじめは生活のためだったかも知れないが、そこで写真の可能性を見出したのかも知れない。が、東松さんの誘いで日本写真家協会の会員となり『日本写真史1840-1945』(平凡社、1971 ※1968年の「写真100年──日本人による写真表現の歴史」展とともに企画された出版)の編集委員も引き受け、写真の発掘、本文の執筆、編集を引き受けひどく多忙だったことが休講が続いた原因だった。この仕事に、膨大なエネルギーをつぎ込んだ理由ははっきりしない。本人は、ボランティアに納得していなかった。
 ベトナム戦争は一層泥沼化し、全共闘運動も「新宿騒乱事件」と高揚し社会は騒然として先は見えなかったが、明治100年を契機に過去を振り返ろうと、多くの組織が「明治100年」企画を進めた。それでも経済は間違いなく成長し続けていて、仕事がないとか食べていけないということはなかった。そういう時代だった。
 しかし、大学改革は失敗、社会は経済活動を中心に大学紛争などなかったように平穏を取り戻し、ますます閉塞して行った。『プロヴォーク』も一夜咲きのサボテンの花のようだった。
 いずれにしても、この時代の多木さんは自分の存在や進むべき方向がはっきり定まらず、模索の時代だったと私は見ている。けれども、彼がほかの知識人と異なっていたのは、自ら体を動かし写真を撮り、表紙をデザインし、シルク印刷で手を汚しながら表現活動をしたことだった。販促ポスターを持って、大型書店に『プロヴォーク』を置いてくれるようセールスに行く姿を想像できるだろうか。但し、本当のところは不明。
 その後、建築批評のウエイトは減り、美術史家とか批評家と呼ばれるような視線、空間認識、認知論などを展開しつつ世界を拡げていった。彼の文体は、非常に理解しにくく、理解できない奴は読まなくて結構と突き放していた。宮川さんは「お経みたいだ」と評していた。
 それは、大学でも同様で後進を育てるとか、人材を育成するという意志はなく、ともかく自己中心的で「俺の授業をとるなら、オランダ語ぐらい自習してこい」という感じだった。
 森山さんによると、『プロヴォーク』解散後一度も全メンバーで会ったことはないそうだ。


執筆:2011年5月10日
初出:和光大学の卒業生向けの個人紙(限定16部)
……ウェブ公開の経緯

「大パネル」

プロフィール:
川俣修壽[かわまた・しゅうじ]ジャーナリスト。1966年和光大学人文学部人間関係学科に入学/卒業(1期生)。社会学を中心に公害・薬害、国立公園問題、地域社会などの調査研究をする。写真集『真昼の街』(傘張り浪人社、1981)、著書『サリドマイド事件全史』(緑風出版、2010)、共著書『レジャーと現代社会──意識・行動・産業』(法政大学出版局、1999)などがある。


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